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義父からの贈り物 トータルで考えると
2009/05/15(Fri)
話をして結びになってくると義父はよくこの言葉を使う。
「トータルで考えると・・・」
初めの頃はなんとなく聞き流していて、それこそ結論は・・・ぐらいの意味で受け取っていましたが、最近は「なるほど」と思うのです。
「物事はなんでもトータルで考えないと」

決断したりするときのひとつの物差しとして、考える癖として。
そしてン十年経った今はこの『トータル』という考え方は全てを言い表していると思うにいたりました。
例えば人の性格。
人間だから美点も欠点もあります。
トータルで判断しなければ目先の些細なことで怒れてきます。
或いは人生。
長い人生、目の前だけの損得、時間の無駄だけを考えてしまうと大きなものを見失ってしまいます。
今は無駄と思える時間も小さな損出も、その先にある未来につながっている場合が往々にしてあります。
若いときには1,2年のスパンでしか考えられなかったことが、人生を歩んでいくと大きな道筋が見えてきたりして「しまった」と思ったときは時すでに遅しです。
そうならないためにも考えるときはなにか動くときは、この「トータルで考える」という考え方が大切と思いました。
トータルで考えてよいと思うことは今現在報われなくても信念を持って貫く、それが力強い生き方になっていくようです。
器の大きな人、懐の深い人、揺るがない人・・・目先にこだわらない人物はまずそんな考え方が出発点になるのかもしれません。
よく大所高所とかマクロ的、という言葉を聞きますが同じような意味もありますが、やっぱり「トータルで考える」という方が目線が具体的でより現実的です。
そしてこれは生き方だけでなく、あらゆる物事を考えるとき(前記の人の性格など)頭に置いておくといいと思います。

「トータルで考えると」目先のことは大切なことではあるけれど、ある一現象にすぎないということも分かってきますね。
今をおろそかにせず、なおかつその進むべき道筋はハッキリとしているというのがいいのでしょうね。
わが人生と考えると難しいですが小さなことから出来そうな考えでもあります。

うちの主人、トータルで考えてその『飲み会』や『ゴルフ』は大切と思っているなら仕方ないでしょう(笑)
うちのドラ息子、トータルで考えてテスト前のその時間のすごし方でいいと思っているなら仕方ないでしょう(笑)
私の場合、そこに厳しさがないのが問題かしら?

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贈り物
2008/12/06(Sat)
お歳暮を買いに行きました。
と言ってもうちはピアノの先生に贈る分だけですので一件分だけ・・・後はデパートをぶらぶら^^

この季節、クリスマスやお歳暮など品物を贈る、受け取ることの多い季節ですね。

そこで思い出すのが義父のニコニコ顔。

ある時、義姉(義父にとっては娘)から宅急便が送られてきました。
義姉は以前こちらでもご紹介したことがあるのですが、竹を割ってさらに水を流したようなサッパリとした男前の出来る人。
ご主人と会社を経営しているので、そればかりでなくそんな頼れる性格のため常に周りから頼られ、すごく忙しい。

その当時も会社に必要な資格を取るため、受講しながら仕事をしながらの生活で義父たちは口に出しては言わないけれど心配していたはず。

そんな中、届いた宅急便。
細々としたあったら便利な食べ物、とても手の出ない高級な食品、日用品、健康グッズ、好物・・・当時離れて暮らしていた私達(弟夫婦)の分まで色々と送られてきました。

その品を嬉しそうに義父が車に積んでうちに来た。

「品物が嬉しいんじゃなくて、こうやって○○が(義姉の名前)気に掛けられること。その余裕があるという事が嬉しい。忙しいと思うけどまだこちらの事を気に掛けられる余裕があることが分かって嬉しい。」
とニコニコと本当に嬉しそうに言ったのです。

ああ、こういう喜び方もあるんだな、と思いました。
お義姉さんの体と心の健康を心底喜んでいるんだなと。
心と心の結びつきが一瞬目に見えたように思いました。


品物を送るとき、品物よりも、贈る心以上に相手の心の余裕を喜ぶ仲。

品物をありがたがって、贈る心を感謝して、そこまでは私も思うことです。
もう一つ進めて、相手の心の状態、在りかたまで喜べる気持ちっていいですね^^

私も何かしら心のこもった贈り物をいただいた時、そこまで思いを馳せてみたいものです。

この忙しい師走だからこそ、贈り物、賀状など一層丁寧に心をこめて相手に思いを馳せる余裕が必要なのでしょうね。


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認識するということ
2008/08/28(Thu)
息子の話題で義父と話した時のこと。

私の頭の中が180度変わったので、と言ってもそんな大袈裟な事ではないのですが、そのことのお話です。

反抗期真っ盛りの息子については義父義母とはこと話題がつきません。

「この前はこうだった」「あの時はこう言った。」「あんな態度をとった!」
などと、嫁、姑舅の間のいい潤滑剤(笑)になってくれています^^
もっぱら私に対しては横着な態度、義父義母には優しい息子なのですが。

よって話の内容は私が息子について
「ああいう子でこういう子で困った困った」(ほとんど言い付け状態・笑)
となるわけで、それに対して
「こんな原因ではないか?」「もっとこうしないといけないいんだがなー」
と義父は応える。

その時私が息子について学校の先生はこう仰っていて、ご近所の同級生のお母さんはこう仰っていてと言ったとき、義父は是は時を得た!とばかりに話し出しました。

「かずみさんの見方はこう、先生はこう、ご近所の方はこう。いろんな見方があってやっとそこで一人の○○の姿が見えてくる。これがまさに『認識する』ということ。」と教えてくれた。

哲学用語では『認識する』というのは難しく書いてあるけれど、実際に分かりやすくその時が熟すまで待って義父は教えてくれた。

ある問題に対して、はじめの現状把握で私はこけていたみたいです。
一方的な自分の見方ばかり押し付けて「こんな息子」と決め付けて一人困っていました。

はなはだ失礼なのですが「ランチ好きなお母様方との昼食はちょっと時間つぶしかな~」と、その話の内容に少し飽き飽きしていた私で、いつもクラス懇談会の後のお誘いはやんわりとお断りしたりしていました。
尤も3番目が小学校から早く帰ってくるのが第一の理由でしたが。(みなさん有閑な方ばかり)
気のあった考え方の同じ友達、懐かしい友達との時間だったり義父母たちや家族の時間、一人の時間を大切にしてきた今までの私。
義父の話にピンと来て(変えなくては)と思いました。
2時間のランチの中にあるたった5分でも10分でもキラリと光る息子の影を拾おうという気持ちで、その後のランチには万障繰り合わせて参加することにいたしました(笑)
お蔭で夏休み前はランチ三昧。
「夏休みも時間を見つけてお会いましょうね」とメールをいただきつつも出席できず、もうすぐ9月ですが早速、ありがたいお誘いがきています。

少々飽きてもきているのですが、お勤めの方男の方にも『お付き合い』があるようにママの中にもあるのだな~と、今まで好きな人にだけ会い、好きなことばかりやっていた私でしたがこれがまたどうして、いろいろ勉強になります。

話の内容は総じて面白く、お腹を抱えて笑ってしまうことばかりです。
みなさん息子には手を焼いている様でうちの息子のかわいいこと(笑)イヤいけない部分も沢山ありますが。

今、息子と同じクラスのTさんは絵に描いたようなご良家から嫁がれた小柄な品のある、お医者さんの奥様でピアノの先生(雰囲気を知っていただきたくてご職業を書きました^^)
ところが・・・・
口喧嘩から息子さんと取っ組み合いをしたらしく、それを止めに入ったお嬢さんはお気に入りのTシャツを引き裂かれ、奥様は口から血を流しながらの格闘だったらしいです。
やっとご主人が止めに入ったのですが瞬時に股間に蹴りをいれられもだえ苦しんで役に立たず。
息子さんへの怒りとご主人の不甲斐なさに怒り心頭。
この奥様からこんな言葉が出てくるのかと・・・感心しておりました。
とっても可笑しくてみんなでその様子を伺って大笑い^^

後で別の奥様に「みんな戦っているのね」といったら
「そうよ、事の大きさは別としても小さな細かい事、みんな日々、戦っているのよ。」
と言われました。
この言葉にすごく勇気をもらいました。

話がまたいつものごとく(笑)逸れて行きましたが、『人と比べる事はつまらない事、なんの徳もないこと』と思っていましたが、それはそうに違いないけれど、『人と比べてこそ認識できる』という世の中の仕組みの不思議さに、一つ分かったようでなんのことはないまた一つ新たな状況があらわれて深いものを感じます。

比べない事は大切だけど、他と比べる事でしか認識できない私達。
空気と私の境は比べる事でしか区別できません。
目で見えるものでさえそうなんです。
多方面から見て、比べてやっと”息子”という実体が認識できるのです。

書き方がヘタでわかってもらえるでしょうか、私の言いたいこと。
善が悪にもなり前が後ろにもなる感覚を義父の一言で感じた私でした。
この世の中、奥が深いな~と、やっと世の中の仕組みみたいなものが分かったような気がしていたのですが、やっぱりまだまだ入り口でした。

みなさんもなにか問題の解決に困った時、解決の糸口として固定観念を捨てて『認識』することからはじめてみると、解決とまではいかなくても何か気付く事があるのかもしれませんね。
私も精進します^^


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義父からの贈り物~手をあわせる気持ち
2007/11/21(Wed)
今朝、朝焼けの前に”明けの明星”が見られました。(5時56分の空)
手元がぶれて月のようにも見えますが、星です。
20071121065501.jpg


さて引越をする中で仏壇の問題が生じまして、その一部始終をお話することはしませんが、一連の運びの中で
”手を合わせる気持ち”
の話が義父との間にありました。
以前から耳にしていた事、付け加わった事があり私自身も納得していたことなので記事にしました。

いつも申し上げるように、これは義父と私の個人的見解ですので千差万別、人それぞれ色んな考えを持っていらっしゃると思います。
ひとつの考え方として読み進めてくださいませ。
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義父からの贈り物~平等なもの、人間性
2007/09/08(Sat)
久しぶりに義父の言葉。
只みなさんに知っておいていただきたいのは、私はあくまでも義父との橋渡し、メッセンジャーで実践者になりたいのですがそうではありません。
義父の言葉は事あるごとに、頭の引き出しから引っ張り出され、私の考え方に大きなヒントをくれます。
いろんな考え方もあるし、あるいはもう分かりきった事かもしれませんが”言葉”として整理されたものはなにかにつけて迷いを払いのけてくれました。
皆さんも読んでみてもし利用できたら、考えるきっかけになれば嬉しいと思いUPしています。
あまりにも自分が未熟なため、こういう前書きを書かないと書き始められませんでした。
ただ、実践できていませんが、そうありたいと常に強く思っている事でもあります。
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寄り添う
2007/06/15(Fri)
3,4日前に新聞で目にした「寄り添う」という言葉が頭から離れず、例によって時々引っ張り出してあれこれ思い巡らしていました。

3,4日前までの私は、相手に対して「私も頑張るからあなたも頑張りなさい」「もっと大変な人はいるから甘えないで」という嫌な母親でした。
こう書いていても嫌になります。

現実に娘、息子は私から見ると甘えており、まだまだ頑張りも足りません。
でも「いってきます!」と元気に学校へ行き何かしら人間関係を営み、学び、時には辛いことも我慢して「ただいま!」と元気に帰って来ます。
どうして「大変だったね、楽しかったね、辛かったね、疲れたね」とその時々の気持ちに寄り添ってやらずに、次の行動を求めたのかしら。
そっと寄り添ってやれば、満足して自然に次の行動は起こせるものなのに。


他にも私と主人、私と友達、私とブログで知り会った方々など、いろんな関係を思い起こして巡らしたのですが長くなってしまいます。

「寄り添う」って消極的な行動に見えても実は忍耐のいる、でも相手の方をとても尊重した行動と思います。
相手の方も自分も変えずに(無理せずに)お互いが変化できる行動ではないでしょうか。

社会に出れば自分の考えを主張したり、NOと言えなければなりませんし、自分を律して隙を作らない事も大切です。
たぶん言葉で言うほど簡単ではないと思います。
でも仕事を離れほっとした時は大切な人は勿論、縁のあった方には寄り添う気持ちを持ちたいものですね^^

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義父からの贈り物~見返り
2007/06/12(Tue)
昨日義父の顔を見に行きました。
最近は体の調子がかんばしくなくいつも話すのはどうしても病気の関係になっていたのですが、昨日はすごく生き生きとして以前の輝きが戻っており、また色んな話をしてきました。
仏教だったり仕事だったり、戦争の事、自分を律することなど等、話は多岐に渡り興味深く聞きました。
何という結論を聞いてきた訳ではなく、いつものようにとりとめなく義父が思いつくままの話をただただ聞いて、自分なりに解釈するのですが一つ(これはちょっと調べてみたいな)と思ったのは・・・
「仏教でいう”空”という考えは”自分を律する”という考えにつながる」というのです。
どうしても私の頭では”空”が”自分を律する”につながらなくて(関係がないように思える、別次元の話と思える)ちょっと気になっています。
また(こういう事かな?)と思えたら書き留めますね。

閑話休題、
「誰かになにかをしてさしあげる時、見返りは期待するな」
と、こういった事はどなたも大なり小なり、年長者から聞いたりしているかもしれません。
確かに見返りを期待した行為は傍目から見てもみっともなく見えます。

義父は
「見返りを期待するぐらいなら手を出すな」
とさらに強く言います。

初めは本当にその人のことを思ってした事も後で「ああしてあげたのに、何も言ってこないし、お礼もない」と言う愚痴をたまに耳にしますが、ほとほとあきれてしまいます。
本当に心から出た行為もその言葉一つで醜いものになってしまいます。

誰かに何かをしてさしあげる時は全て「自己満足の行為」、自分がしたいからするというスタンスでないと相手にも迷惑、つまり相手の心の負担になるということです。

相手の方が「ありがとう」と言ってくださった場合はいつも
「私がしたいから勝手にやっているだけだから、気にしないでね」と言います。

自分が良かれと思ったことも相手にとっては、どんな受け止め方になるかは分かりません。
自己満足と割り切り、後で愚痴にならないように爽やかにいきたいものです。

これが義父の「見返りを期待するぐらいなら手をだすな」という言葉から私が考えた事です。
ただ勘違いされると困るのですが、無関心でいなさいとか、手助けしないでいましょう、ということでは決してありませんので^^
反対に自分が良いと思う事はどんどん行動に起こしましょう、でもその行為は見返りを期待してはいけないという意味の逆説的な言葉です。


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